ユウの修学旅行の準備の買い物で、
珍しくヨウも家にいるので、家族全員で
ららぽーとへ買い物に出かけた。
決断したのが、お昼近かったので
夕方のすきだした頃をねらって、出かけました。
4時過ぎに到着したものの、まだまだ込んでいました。
とりあえず、ユウの買い物。
その間、パパさんは タワレコへ。
で・・・・・今日のCDのお買い上げは、
JANIS JOPLINのPEARL
お~~懐かしい!!
(って、私はさすがにこの年代ではないか^^;)
でも、超有名なCD(彼女の遺作なので・・・)
もっていても いいCDですよね^^
MOVE OVERをきいた、ヨウとユウは
この曲、知ってる!!(パパさんにっこり^^でした)
面倒なので(私が・・) 外食をしながら、
ヨウがCDジャケットの中書を読んでいたら
(全部英語だった。。。)
Janis is an extraordinary album for more reazons than meet the eye and ear.
It was the last album Janis Joplin made before shi left us,too soon,the victim of an accidental drug overedose at the age of 27.
と、ドラッグの犠牲になったと、書いてあった。
この書き方おもしろいね、ドラッグによって亡くなった
のではないんだね。
と 面白いところをついてきた・・・^^;
(へへ・・・母はいまいち英語のニュアンスは
解からないけど知ったかぶりをしてしまった・・・)
この間ユウは、ついでに買ってもらった
ヴェルサイユのCDをニコニコしてながめていた・・・
それにしても、今日は散財してしまった・・・
何をそんなに買ったのか??って
それは 後日!!

JANIS JOPLINE(wikipediaより)
ジャニス・ジョプリン(Janis Joplin、本名: Janis Lyn Joplin、1943年1月19日 - 1970年10月4日)は、アメリカ合衆国テキサス州ポート・アーサー出身のロックシンガー。魂のこもった圧倒的な歌唱力と特徴のある歌声により、1960年代を代表する歌手として活躍。また死してなおロックの歴史を代表するシンガーとして現在に至るまで人気を博している。
生涯 [編集]
父のセスはテキサコに勤める労働者で、家族は両親とマイケル、ローラの3人兄妹であった。ジョプリンは、小さな頃からベッシー・スミスやオデッタ、ビッグ・ママ・ソーントンなどのブルースを聴いて育つ一方、地元の聖歌隊に参加していた。1960年に、ポート・アーサーのトーマス・ジェファーソン・ハイスクールを卒業し、テキサス大学オースティン校に入学。高校では、他の生徒から孤立しがちであったが、仲の良かったグラント・リオンズという生徒にレッドベリーのレコードを聴かされたのを契機に、ブルースやフォーク・ミュージックにのめり込むようになった。
大学をドロップアウトしたジョプリンは、1963年にサンフランシスコへと向かった。フォーク・シンガーとして生計を立てていたが、この頃から麻薬の常習が始まったとされる。覚醒剤やヘロインの他にアルコールも大量に摂取していた。彼女のお気に入りの銘柄は「サザン・カンフォート」であった。
当時の女性シンガーについて当てはまることであるが、ジョプリンの外的なイメージと内面には大きな隔たりがある。後に彼女の姉妹が著わした手記『Love, Janis』には、彼女が知的でシャイ、繊細な家族思いの人物であったことが記されている。
ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー [編集]
一時静養のためにポート・アーサーへ帰郷したが、1966年には再びサンフランシスコへと戻っている。ヘイト・アシュベリーを中心としたヒッピーたちの間で際立って目立っていた彼女は、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーに参加する。バンドは、独立系レーベルのメインストリーム・レコードと契約し、1967年にバンドの名を冠したアルバムを発表したが、売れ行きは不調でレコードは早々に倉庫にしまい込まれた。
しかし、このバンドはモントレー・ポップ・フェスティバルにおける演奏で大きな注目を集めるようになった。ジョプリンは、ビッグ・ママ・ソーントンの「ボール・アンド・チェイン」を荒々しい歌声で歌いこなしてみせた。D・A・ペネベイカー撮影のドキュメンタリー『モントレー・ポップ』では、群衆の中に紛れたキャス・エリオットが”Wow, that's really heavy”と呟く姿が撮影されている。1968年のアルバム『チープ・スリル』では以前に増して生々しい歌声を披露し、その評価を決定づけることになった。スタンダード・ナンバーをブルース風にカバーした「サマータイム」や、前述の「ボール・アンド・チェイン」等、迫力のある歌が多く収録されている。
ウッドストック [編集]
ビッグ・ブラザーから離れた彼女は、新しいバンドであるコズミック・ブルース・バンドを結成。ブラス・セクションを加えた、よりソウル・ミュージックを意識した編成だ。1969年に『コズミック・ブルースを歌う』をリリースして、ウッドストック・フェスティバルにも出演したが、このバンドもすぐに解散した。その後、ジョプリンは新しいバック・バンドであるフル・ティルト・ブーギー・バンドを結成する。こちらは、2人のキーボード奏者を含んだ編成。このバンドにおける演奏をもとに、ジョプリンの死後制作された1971年発表のアルバム『パール』は、彼女の短いキャリアにおける最高の売り上げを記録した。このアルバムからは、クリス・クリストファーソンのカバー曲「ミー・アンド・ボビー・マギー」と、ビートニク詩人マイケル・マクルーアとジョプリンにより作曲された「メルセデス・ベンツ」がヒットしている。
夭折 [編集]
彼女が生前最後に公の場に姿を現したのは、1970年6月と8月に放映されたテレビ番組であった。6月の番組で、彼女は高校の同窓会に出席する予定だと述べた。同じ番組で、自分は今までクラス、学校、町、そして国中の笑い者だったとも語っている。一躍スターとなり彼女は同窓会に出席したが、その際も疎外感の中、孤独な表情がカメラに押さえられている。この一件は、ジャニスの孤独感を表す象徴的なエピソードとして語られている。
1970年6月29日から7月3日、「フェスティバル特急」と呼ばれた電車に乗って、カナダ・ツアーを行った。ザ・バンドやグレイトフル・デッド、バディ・ガイ等が同乗した豪華なツアーで、この模様は、後に映画『フェスティバル・エクスプレス』として公開された。
1970年10月4日、アルバム『パール』の録音のため滞在していたロサンゼルスのホテルで死亡しているのが発見された。27歳没。使用したヘロインが通常のものより高純度であったため、致死量を越えたことが原因であるとされる。録音中だったアルバムの収録曲のうち、「メルセデス・ベンツ」はアカペラの仮録音、そして「生きながらブルースに葬られ」は本人の歌が録音出来ないまま演奏だけが収録されている。遺灰は、カリフォルニアで海へ撒かれた。(wikipediaより)
●『パール』
≪ディスク1≫
(01) Move Over
(02) Cry Baby
(03) A Woman Left Lonely
(04) Half Moon
(05) Buried Alive In The Blues
(06) My Baby
(07) Me And Bobby McGee
(08) Mercedes Benz
(09) Trust Me
(10) Get It While You Can
(11) Happy Birthday, John (Happy Trails)
(12) Me And Bobby McGee [Demo Version]
(13) Move Over [Alternate Version]
(14) Cry Baby [Alternate Version]
(15) My Baby [Alternate Version]
(16) Pearl [Instrumental]
≪ディスク2≫
(01) Tell Mama [Live]
(02) Half Moon [Live]
(03) Move Over [Live]
(04) Maybe [Live]
(05) Summertime [Live]
(06) Little Girl Blue [Live]
(07) That's Rock 'N Roll [Live]
(08) Try (Just A Little Bit Harder) [Live]
(09) Kozmic Blues [Live]
(10) Piece Of My Heart [Live]
(11) Cry Baby [Live]
(12) Get It While You Can [Live]
(13) Ball And Chain [Live]
珍しくヨウも家にいるので、家族全員で
ららぽーとへ買い物に出かけた。
決断したのが、お昼近かったので
夕方のすきだした頃をねらって、出かけました。
4時過ぎに到着したものの、まだまだ込んでいました。
とりあえず、ユウの買い物。
その間、パパさんは タワレコへ。
で・・・・・今日のCDのお買い上げは、
JANIS JOPLINのPEARL
お~~懐かしい!!
(って、私はさすがにこの年代ではないか^^;)
でも、超有名なCD(彼女の遺作なので・・・)
もっていても いいCDですよね^^
MOVE OVERをきいた、ヨウとユウは
この曲、知ってる!!(パパさんにっこり^^でした)
面倒なので(私が・・) 外食をしながら、
ヨウがCDジャケットの中書を読んでいたら
(全部英語だった。。。)
Janis is an extraordinary album for more reazons than meet the eye and ear.
It was the last album Janis Joplin made before shi left us,too soon,the victim of an accidental drug overedose at the age of 27.
と、ドラッグの犠牲になったと、書いてあった。
この書き方おもしろいね、ドラッグによって亡くなった
のではないんだね。
と 面白いところをついてきた・・・^^;
(へへ・・・母はいまいち英語のニュアンスは
解からないけど知ったかぶりをしてしまった・・・)
この間ユウは、ついでに買ってもらった
ヴェルサイユのCDをニコニコしてながめていた・・・
それにしても、今日は散財してしまった・・・
何をそんなに買ったのか??って
それは 後日!!

JANIS JOPLINE(wikipediaより)
ジャニス・ジョプリン(Janis Joplin、本名: Janis Lyn Joplin、1943年1月19日 - 1970年10月4日)は、アメリカ合衆国テキサス州ポート・アーサー出身のロックシンガー。魂のこもった圧倒的な歌唱力と特徴のある歌声により、1960年代を代表する歌手として活躍。また死してなおロックの歴史を代表するシンガーとして現在に至るまで人気を博している。
生涯 [編集]
父のセスはテキサコに勤める労働者で、家族は両親とマイケル、ローラの3人兄妹であった。ジョプリンは、小さな頃からベッシー・スミスやオデッタ、ビッグ・ママ・ソーントンなどのブルースを聴いて育つ一方、地元の聖歌隊に参加していた。1960年に、ポート・アーサーのトーマス・ジェファーソン・ハイスクールを卒業し、テキサス大学オースティン校に入学。高校では、他の生徒から孤立しがちであったが、仲の良かったグラント・リオンズという生徒にレッドベリーのレコードを聴かされたのを契機に、ブルースやフォーク・ミュージックにのめり込むようになった。
大学をドロップアウトしたジョプリンは、1963年にサンフランシスコへと向かった。フォーク・シンガーとして生計を立てていたが、この頃から麻薬の常習が始まったとされる。覚醒剤やヘロインの他にアルコールも大量に摂取していた。彼女のお気に入りの銘柄は「サザン・カンフォート」であった。
当時の女性シンガーについて当てはまることであるが、ジョプリンの外的なイメージと内面には大きな隔たりがある。後に彼女の姉妹が著わした手記『Love, Janis』には、彼女が知的でシャイ、繊細な家族思いの人物であったことが記されている。
ビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニー [編集]
一時静養のためにポート・アーサーへ帰郷したが、1966年には再びサンフランシスコへと戻っている。ヘイト・アシュベリーを中心としたヒッピーたちの間で際立って目立っていた彼女は、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーに参加する。バンドは、独立系レーベルのメインストリーム・レコードと契約し、1967年にバンドの名を冠したアルバムを発表したが、売れ行きは不調でレコードは早々に倉庫にしまい込まれた。
しかし、このバンドはモントレー・ポップ・フェスティバルにおける演奏で大きな注目を集めるようになった。ジョプリンは、ビッグ・ママ・ソーントンの「ボール・アンド・チェイン」を荒々しい歌声で歌いこなしてみせた。D・A・ペネベイカー撮影のドキュメンタリー『モントレー・ポップ』では、群衆の中に紛れたキャス・エリオットが”Wow, that's really heavy”と呟く姿が撮影されている。1968年のアルバム『チープ・スリル』では以前に増して生々しい歌声を披露し、その評価を決定づけることになった。スタンダード・ナンバーをブルース風にカバーした「サマータイム」や、前述の「ボール・アンド・チェイン」等、迫力のある歌が多く収録されている。
ウッドストック [編集]
ビッグ・ブラザーから離れた彼女は、新しいバンドであるコズミック・ブルース・バンドを結成。ブラス・セクションを加えた、よりソウル・ミュージックを意識した編成だ。1969年に『コズミック・ブルースを歌う』をリリースして、ウッドストック・フェスティバルにも出演したが、このバンドもすぐに解散した。その後、ジョプリンは新しいバック・バンドであるフル・ティルト・ブーギー・バンドを結成する。こちらは、2人のキーボード奏者を含んだ編成。このバンドにおける演奏をもとに、ジョプリンの死後制作された1971年発表のアルバム『パール』は、彼女の短いキャリアにおける最高の売り上げを記録した。このアルバムからは、クリス・クリストファーソンのカバー曲「ミー・アンド・ボビー・マギー」と、ビートニク詩人マイケル・マクルーアとジョプリンにより作曲された「メルセデス・ベンツ」がヒットしている。
夭折 [編集]
彼女が生前最後に公の場に姿を現したのは、1970年6月と8月に放映されたテレビ番組であった。6月の番組で、彼女は高校の同窓会に出席する予定だと述べた。同じ番組で、自分は今までクラス、学校、町、そして国中の笑い者だったとも語っている。一躍スターとなり彼女は同窓会に出席したが、その際も疎外感の中、孤独な表情がカメラに押さえられている。この一件は、ジャニスの孤独感を表す象徴的なエピソードとして語られている。
1970年6月29日から7月3日、「フェスティバル特急」と呼ばれた電車に乗って、カナダ・ツアーを行った。ザ・バンドやグレイトフル・デッド、バディ・ガイ等が同乗した豪華なツアーで、この模様は、後に映画『フェスティバル・エクスプレス』として公開された。
1970年10月4日、アルバム『パール』の録音のため滞在していたロサンゼルスのホテルで死亡しているのが発見された。27歳没。使用したヘロインが通常のものより高純度であったため、致死量を越えたことが原因であるとされる。録音中だったアルバムの収録曲のうち、「メルセデス・ベンツ」はアカペラの仮録音、そして「生きながらブルースに葬られ」は本人の歌が録音出来ないまま演奏だけが収録されている。遺灰は、カリフォルニアで海へ撒かれた。(wikipediaより)
●『パール』
≪ディスク1≫
(01) Move Over
(02) Cry Baby
(03) A Woman Left Lonely
(04) Half Moon
(05) Buried Alive In The Blues
(06) My Baby
(07) Me And Bobby McGee
(08) Mercedes Benz
(09) Trust Me
(10) Get It While You Can
(11) Happy Birthday, John (Happy Trails)
(12) Me And Bobby McGee [Demo Version]
(13) Move Over [Alternate Version]
(14) Cry Baby [Alternate Version]
(15) My Baby [Alternate Version]
(16) Pearl [Instrumental]
≪ディスク2≫
(01) Tell Mama [Live]
(02) Half Moon [Live]
(03) Move Over [Live]
(04) Maybe [Live]
(05) Summertime [Live]
(06) Little Girl Blue [Live]
(07) That's Rock 'N Roll [Live]
(08) Try (Just A Little Bit Harder) [Live]
(09) Kozmic Blues [Live]
(10) Piece Of My Heart [Live]
(11) Cry Baby [Live]
(12) Get It While You Can [Live]
(13) Ball And Chain [Live]
コメント